占いに魅せられるのは
子どもの頃、家には祖母が毎年買う九星気学の年運暦がありました。
表紙の装丁から高島易断所のものだったと思います。
文字であれば片っ端から何でも読みたかった私は、祖母がこれを引き出しにしまい、たまに取り出して読んでいるのに興味を持ち、自分の星回りがどれかと意味なども祖母に教えてもらいながら、小学校低学年の頃から毎年読んでいました。
これが私の最初の占い体験でした。
昔の田舎の家なら普通だと思いますが、仏壇、神棚ともにあり、季節の折々に仏事、神事にまつわる行事やお供え、お参りは日常に溶け込んでいました。
実家は神社の旧参道から横に一本入る道のところにあります。住んでいる地区は神社を中心に「神」の字がつく地名で、本来はものすごく長く広い参道があったものが短くされた影響なのか、神社の神域に入ったときの独特のシーンとした感じがいまの神社部分だけでなく、脇にずっと人の住む家が並んでいるにもかかわらず旧参道の部分まで及んでおり、一帯が空気にほんの少しの緊張感漂うような独特の雰囲気があるところです。
私はよく熱を出す子どもで、39度、40度は当たり前、42度ギリギリまでいったことも何回かありました。
ふだんはほとんど夢を見ない質なのですが、体調を崩すと少し良くなっても寝ているように言われ、そうなると際限なくウトウトして半覚醒の状態で、こういったときだけは夢をよく見ました。
その夢も視覚だけの移動で見ているうちに景色が通常あり得ないようにグニャグニャ変化する『あ、これ夢だ』と自分でわかるものと、自分の身体そのものが、現実の情景と思われるようなところへ行く、つまり現実と見まごう場所に自分そのものが移動して、そこにきちんとある感覚を伴うものとがありました。
前者は全く再現性がありませんでしたが、後者は自分が「あの場所へ行く」と意識すれば何度でも行ける場所でもありました。
行ける場所は3ヵ所あって、屋外の木組みの塀があるすぐ側と、2階建ての家の上階のとある部屋、最後の1つは暗い暗い洞窟が延々と続くようなところでした。私の実家は平屋建てで、3ヵ所とも行ったことのない風景でした。
10歳になる前ぐらいだったと思います。何回か繰り返すうちに、体調を崩していない時でも薄暗い部屋で横になると意識しただけで行けるようになりました。
最初の2つは自分がそこへ行ってもその場所の風景が変わらずにあるだけで他の人を見かけたりといった変化がなく、その場所そのものへ行くだけでそこから他のところへ移動できなかったため、だんだん関心がなくなっていったのですが、最後の1つの洞窟のような場所は、どんどん奥へ行くと自分よりもはるかに大きい丸い透明な玉のようなものがあり、それに手を当ててピタッと張りつくと中にいろいろな人が動いているのが眺められるのが興味を引き、何回も行くようになりました。
ただ、そこへ行くのには半覚醒みたいな状態に自分を置く必要があるのと、それなりに時間がかかり、昼間にこれをやると家族に具合が悪いのかと言われたり、ボーッとして他のことができなくなったり、子どもながらに何となくこれは健全ではないという気がしていました。それに、玉に張りついて見たいのは前回の続きなのに必ずしも続きが見られるわけではなく音は聞けず、見てもどういう場面かもわからず消化不良な感じでした。何となくこれを続けたら普通ではいられなくなる気がして、「もうやめよう。行かない」と封印することを決めたのです。
そのこととの関連はないのでしょうが、その後、私はあれだけ熱をひんぱんに出していたのが嘘のように丈夫になりました。
そうして中学生になったとき、ふと気づくと教室での目の前の状況が、以前、玉の向こうに見た情景そのものでした。「あっ、これ見た……」と思いつつ、自分もそのなかの1人として動いているのです。印象に残っていた赤い服と青い服、中学の運動用のジャージを着ている人たちの教室でのとある群像です。いわゆるデジャブなのですが、半覚醒の夢で見た小学生のときは中学生のジャージ着用など知らず、実際に見たこともなかったため、当時はその服装が何なのかも全くわかっていませんでした。見たとたん場面が理解でき、以前に確かに自分がこれを見たときの状況と記憶が確かだったため、ああ、これを見ていたのかと腑に落ちました。
このことがきっかけのひとつになって、未来を予測する占いに魅せられることになります。
子どもの時はあれだけ自由に行き来できていたのにも関わらず「封印する」と自分の心で決めてしまったせいか、今は扉を開くことができず、この手の夢やビジョンを直接見ることはかなっていませんが、占いで降りてくる言葉やインスピレーションの助けになっているとは信じたいです。
そうそう、3つの情景のうち木組みの塀は、実家を離れいま住んでいる家の庭の一部分の情景そのものでした。もうひとつは、いまだにどこかはっきりしないのですが、そのうち、「ああ、ここだ」と納得できる場所にたどり着けるかもしれません。